"ニヒリズム"という歌について
その歌を聞くと、なんだか元気が出てくる。
そういう歌があると思う。
2というバンドの、”ニヒリズム”という歌が最近の私にとってのそれだ。
メロディーも良いけれどとにかく歌詞が良い。
好きな部分の歌詞を抜粋。
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真面目になれないくせに
破天荒にもなれないでいる
憧ればかりなくせに
真似できないでいる
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バンドをやっている時点で破天荒とかそういうのやってのけてるイメージがあるのに、シンプルに自分のもどかしさが出ているところに共感してしまう。
この歌を、出勤する最後に通る歩道橋あたりで聞くのがお気に入りで、空が綺麗だとなお良い。
その時期どんなに落ち込んでいても一時的に、よっしゃ今日も頑張る!頑張るぞーーー!うぉーー!という気持ちが湧き上がって笑、足取りが軽くなる。
ニヒリズムの様な、自分のもどかしさ的な歌に私は弱い。
2のボーカル古舘さんが前に組んでいたThe SALOVERSというバンドの、”喉がかれるまで”という歌もそうだ。大学のテスト期間にこの歌がリリースされて、聞いていて何故か涙が出てきた。
あとは洋楽はあまり聞かないけれど、アヴリルの”What the hell”も同じジャンルだと思っている。高校のとき、この歌を聞いてすごくすっとした。偏見だけれど、外人でこんなに売れている人でもこういう気持ちになるんだなあと思ったのは今も変わらない。
歌を作る人は本当にすごいと思う。
私はめちゃくちゃ励まされてきたのでこれからも励ましてもらえる新しい歌に出会えるのを楽しみにしている。
そして4月に出る2のアルバムからもそういう歌がまた出てくることを期待する。
運転したい
私が運転したい、上手に運転できるようになりたい。と思うのは、私個人の生存本能だと思う。
「おぎゃあーーー!」
休日の電車に乗っているとよく赤ちゃんの泣き声を聞く。私は大体電車では目を閉じていたりすることが多い。
けれど、赤ちゃんの泣き声が聞こえると、なんとなく社内の空気が冷たくなるように感じる。
幼少期を車社会の田舎で過ごした私が電車に乗るようになったのは、記憶している限り、小学生になってからだったと思う。
自分自身が幼いころは電車に乗らなかったからか、電車で赤ちゃんの泣いているところに遭遇する度に、私にもしも子供ができたら、電車では移動したくない。と思ってしまう。
赤ちゃんが泣くことは悪いことではなく、仕方のないことだと思う。
けれどそのたびに周りの視線を気にしなければならないこと、子供に我慢させることも辛いと思う。
幼いころ、父や母に車で色々なところに連れて行ってもらった。
だから、私も子供が出来たら運転するのかなとぼんやり、昔から無意識に考えているのかもしれない。
そんな思い出とは関係なく、運転自体は普通の人よりも好きだとも思う。
子供が出来る想像は一切できないのに、車の運転については”子供”なんてことを考えたりする。
そういう年になったのかーとぼんやり思う。けれど、やっぱり全然実感は湧かない。
頑張ったご褒美
「え!やばいそれまじで忘れてた!」
学生時代によく聞いてたセリフ。
宿題やレポートの存在や、締め切りを忘れていた人が言う言葉。
私は、昔からずっと、今でもこの言葉に全く共感出来ない。
やらなくちゃいけないことや締め切りは、頭からそう簡単に離れることはない。
嫌なものが待っているときほど、楽しんでいるとき、頭の奥底で私が楽しむのを邪魔してくる。
でも、先日旅行をしたとき、現実を完全に忘れていた自分がいたことに帰りの電車で気づいた。
3泊4日、高校の部活の友人と大勢で行く旅行はずっと笑いっぱなしだった。
旅行中、この4日間が終わったらまた仕事かー。という話は時々出た。
私自身も口にした。
だけど、その時は目の前の楽しいことにいっぱいいっぱいで、言葉を放つだけで頭は全然現実を考えられていなかった。
帰りの電車でさえもまだふわふわしていて、全く現実を考えられなかった。
仕事のことをたった4日間空いただけなのに、あんなにも考えなかったことはかなり久々。というか、初めてなんじゃないかとも思った。
学生時代の方が遊ぶ回数なんて多い訳で、どうしてあの頃は嫌なものを忘れられなかったんだろうと考えてみて、あの時本気で楽しいわけじゃなかったのか?とも考えた。
きっとあの頃は、沢山遊びすぎていたから現実を忘れられなかったんだろう。
現実を忘れられるほど楽しめるのは、現実で沢山頑張って頑張ってきたご褒美だったんだと思う。
またいつか次の、現実を忘れられるほど楽しい瞬間まで、頑張ろう。
言葉
我が家のトイレには、毎日修造カレンダーがかかっている。
これは、就活の時期に落ち込んで元気が欲しくなったときに、私がなんとなくやけ買いしたものだ。
もう数年かかっている。買った張本人の私はちっともめくっていないのに、マメな父が毎朝めくってくれているから、毎日違う言葉が出てくる。
数年かかっているので、何度も見たことがある言葉ばかりだ。
だけど、この毎日修造カレンダーの一言は、いつも私の状況にぴったりあった言葉を投げかけてくる。
落ち込んでいるときに限ってよく見たりするから、余計そう思ってしまうんだろう。
だけど、どうして今そんなにこの状況にぴったりな言葉で励ましてくれるの!!と何度も今まで思ってきた。
これは、編集者さんが実はめちゃくちゃ考えた順番になっているんだろうか・・?
とそのたびに考えている自分がいる。
学生の頃までは毎日見ていた占いも、影響力が大きかった。
部活がきつい日に占いも悪いと、やっぱりそうだよな~と思う。
部活がきつい日でも占いが良いと、これは自分への良い試練だ!と思って取り組めた。
毎日修造カレンダーも、占いも、私が影響をよく受けるドラマなんかもそうで、大体は大多数に当てはまる言葉が並べられているだけだ。
それなのに、やっぱりどうしても、今の私にぴったり!と思ってしまう。
そう考えると、自分の気持ちだってもっと簡単に、うまくコントロール出来るんじゃないかと思う。けれど、落ち込むときはやっぱり落ち込むし、そんな時は他人の言葉が無いと元気になれないことがほとんどだ。
落ち込んだ時は、殻に閉じこもっていてはいけない。他人と関わって、何かを見て、影響を受けることが一番だ。
悪いことは飲みこんでおけ
愚痴や不満はまずは飲み込んだ方が良い。
イライラしているときは自分の気持ちや心は全く整理できていない。
私の場合、イライラをすぐ人のせいにしてしまう癖がある。
けれど、大抵の場合、相手は悪くないことが多い。
もしくは気持ちを切り替えて考え方を変えれば、むしろイライラするのではなく、
わくわくするべき時だったりすることもある。
落ち着いて、原因に気づいたときには大抵、あんなことしなければよかった。と思う。
だから、まずは落ち着いて。
ぐっと1日こらえて。夜、ゆっくり整理する。夜、もがいてみる。
イライラと不安は似ていると思うけれど、大人になってからくる不安は、1日もがけば大抵のものは解消される。と思うようになってきた。
学生時代の不安は厄介で、1日で解消されるものは少ない。
でもこれはすべて私個人のケース。
ここからは余談で、今だに相手にぶつかり続けてしまうのは、父くらいだ。
学生時代、何年間も単身赴任をしていて一緒に暮らしていなかった父の単身赴任が終了したとき。
父の夜更かし・早起きでテレビを独占する生活スタイルが私のイライラに繋がった。
テレビを独占されるのは相手の悪さもあると思うけれど、存在そのものにイライラするのは私の考え方もおかしいと思う。
だけど、長い反抗期なのか、こればっかりはどうにも解決できないでいる。
家を離れればきっと、何か変わるはず。と今は信じている。
表と裏
誰にだって表と裏があるだろう。私だけじゃないはず。
そう思うようにしているけれど、意外と表と裏が無い人が多いのかなと思う。
でも結局そう思わせる部分がすべて表で、見えないから裏なんだ。と思ったりする。
そんなことを考えるのは、大抵自分が裏にいるときだ。
自分が裏側にいるときは、表側が羨ましくなる。表側の他人になんだか引け目を感じる。
そもそも表と裏ってどこで分類されるのかも分からないんだけど。
なんとなく、表は性格の良い自分。裏は性格の悪い自分。
でもそれだけじゃ片付けられない。性格の悪くない裏もいる気がしている。
いつもよりイライラしている朝は、電車で裏側の自分が出てくる。
意地でも座りたいという気持ちがむき出しになってしまったり。
表の自分が電車に乗ると、しゅくしゅくと満員電車にゆられる。
多分ちょうどまさに、裏側にいる人や変な人に気を使ってあげる余裕がある。
友達といるとき、会社では言わないようなことを言う。
昨日会った友達には話すのに、今日会う友達には話さないことがある。
好きな人には表と裏を両方見せておきたいと思う。
年齢とともに消える裏もある。現れる裏もある。
今まで出していなかった自分を思い切って出して、その反応に喜ぶこともあれば、落ち込むこともある。裏が表に出れれば、それは表になれたということなんだと思う。
裏は裏でも階層がありそうだったり。考えれば考えるほど、やっぱりわからなくなる。
この文章を書いている今の私も表なのか裏なのか、分からない。
新しい世界
基本的に人見知りだから、そんなに沢山のコミュニティには属さない。属せない。
大人になってから冷静に、人付き合い下手だな自分。とは思ったりする。
社会人になってからもそれは変わらない。
だからこそ、新しい世界が出来ると嬉しい。
コミュニティを久々に広げられた喜び。
そして楽しかったけれど、そこには自分しかいなかった不思議な気持ちで書きたくなった。
休日に、会社の人たちと過ごして笑っている自分がいた。
そして、そこに学生時代の友人は誰もいなかった。
あれ、ここに今いるのは自分だけじゃん。これって新しいコミュニティだ。と実感した。
今までの知ってる人、安心できる人がいないのに、ここでも安心して楽しんでいる。
新しい場所だ。と、ふと思った。
会社=仕事のときだけの関係 というのが強かったから、久々に楽しく笑いあえる人たちが増えてすごく嬉しいという気持ち。
この感覚、この文章で伝わるのかな。
とにかくきっと今は、ふわふわとした嬉しさをゆっくりと噛みしめている最中。